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10/8(土)発生したパキスタン北部地震についてのお知らせ
 
復興支援状況レポート (2005年12/19〜12/26)
会員になるには
JFSAの活動は会員の方々に支えられています。
会員になるには下記の郵便口座に年会費をお振込みいただくか、 直接JFSA事務局まで直接お持ちください。
●2014年度(2014年10月〜2015年9月)分の会費になります。
●会員(正会員)には総会の議決権があります。
●会員、支援メンバーには年3回の会報と、 年1回サポーターグッズ(アルカイールの生徒が作ったものなど)を郵送いたします。
※サポーターグッズのサンプルはこちらからご覧ください。

◆郵便振替口座番号 00160-7-444198
◆加入者名 JFSA
≪年会費≫
【 会員(正会員)】

個人1口\5,000-/団体1口\50,000-
【 支援メンバー】
個人1口\2,000-/団体1口\10,000-


※通信欄に「会員」または「支援メンバー」「個人」または「団体」口数をお書き添えください(郵便振替用紙サンプルはこちらからご覧ください)。
※カンパ金をご入金いただく場合も上記口座をご利用ください。通信欄には「カンパ」とお書き添えください。
ボランティア募集中
 
JFSAでは活動を支えるボランティアを募集しています。
【作業内容】
@和服の選別、ハギレ作成、値段付け、など
A寄付された切手などの整理。
B会報などの郵送準備作業。
Cパキスタンへの古着コンテナ詰込み作業など。
Dフリーマーケットやチャリティ古着バザールなど古着販売に関わる補助作業。
【作業日】
作業内容により異なります。JFSA事務局へお問合せください。
【作業場所】
D以外はNPO法人JFSA事務局で行います。
*参加ご希望の方はJFSA事務局までお気軽にお問合せください。*ボランティアは無償で、交通費などの手当てもありません。ご了承ください。
ボランティア募集中
【NPO法人JFSA事務局】
住所:〒260-0001
千葉市中央区都町3-14-10
業務時間:10:30〜19:00
(木曜定休)
電話/FAX:043-234-1206
E-mail:jfsa@f3.dion.ne.jp
 現在パキスタンへ派遣中のJFSA事務局(西村)より、地震被災地の現状についてのレポート(12月19日〜12月26日分)が届きました。
 現地ではこれまでの緊急的な支援に加え、中期的な支援の一環としてアルカイール・アカデミーの協力のもと、「青空学校」が開校しています。

*現在JFSAは事務局の西村を3月まで長期派遣しており、そこへ合流する形で理事長、他の事務局を1名ずつ(それぞれ10日程度の滞在)短期派遣しております。この派遣を通して、カラチ市のアルカイール・アカデミーの支援と、北方地域の地震被災地に対する復興支援にあたっています。

【2ヶ月ぶりに訪れた被災地】
12
19日(月)

 JFSA田辺理事長、アルカイールアカデミーのムザヒル校長、AKBGのサズイド理事、元パキスタン国立銀行職員ザファル氏等と午前7時にカラチ空港を発ち、イスラマバードに午前9時に到着。友人の空港旅行者案内所所長アヤーズ氏に、バラコート行きの車とアボタバードのホテルの手配をして貰い11時にイスラマバードを出て午後3時過ぎにバラコートの町に到着。
 この町は10月8日の地震で建物の殆んどが崩壊した。学校も倒壊し多くの子どもの犠牲者を出した。地震発生10日後にここを訪れた時は、コンクリートの下敷きになったまま死亡した人々の死臭がしていた。2ヶ月を過ぎた今は、倒壊の跡を残しながらも小さなバザールも開かれ復興の兆しが見られた。ここで、支援活動をしていたAKBGのカユーン氏と会う。
 ジープで支援活動現場の山頂の村に向かう。
20分ほどで村に到着。カユーン氏に村を案内してもらい活動報告を聞く。アルカイールが配布したテントは村のいたるところに張られていた。集まってきた村人や子ども達は配布した防寒着を身に付けていた。寒さを凌ぐのに役に立っているようで安心した。山道は非常に危険なので日が暮れる午後5時前に山を降り、ホテルのあるアボタバードに戻る。帰路の途中、車がバウンドして後部座席にいた田辺理事長が頭を天井にぶつけてしまう。相当痛みがあるようだった。ザファル氏は寒さで熱を出してしまう。
1220日(火)
 メンバーの体調がそれぞれ優れず、ホテル内でカユーン氏の報告を受けてミーティングを行う。午後はアボダバード市内を見学する。見学の途中、ムザヒル校長が高熱を出す。そう言う訳で、ホテル内で休み、明日の現場訪問に備える事にした。




まだ倒壊した建物が残る中
バザールが開かれていました




 倒壊した学校で死亡した子ども達の内、一ヵ月後に掘り出された子ども達は腐乱が激しく名前を判別する事が出来なかったらしい。そんな子どもと家族も死亡してしまった子ども達の共同墓です

【青空学校の開校。子どもたちの元気に繋がる場を!】
12月
21日(水)
 体調の回復しないザファル氏をホテルに残して午前10時、支援活動の現場へ向かう。昨日訪ねた村よりさらに高い山の村へ、地震で崩れ落ちた道路の上に急ごしらえした危うい道をジープで登る。
 午後
1時到着。かねてより探していた、学校を設置する場所が手に入り、急遽、子ども達に知らせて授業をすることになった。10坪ほどで少々場所は狭いが、日当たりも良く、すぐ真上には子ども達が住む集落もある。
 まもなく
3歳から10歳までの小学生30人ほどの子ども達が急傾斜をヤギのように素早く下って集まってきた。ムザヒル氏は子ども達に挨拶をした。「今日からここで授業をします。君達は毎日ここに時間通り来れるかな?」と。「ジーハーン!(はい!)」子ども達の元気な声の同意を得て学校が開設される事になった。
 子ども達の顔や手足は埃まみれだった。地震で集落のすべての家が倒壊し、その片付けを手伝っているが水のパイプラインが破壊し思うように水が使えず、沐浴ができないからだ。(飲み水は急傾斜を
500メートルほど下った谷底を流れる水をやっとのおもいで汲んでくる。政府が簡易にプラスチック製のパイプラインを敷設したが二日目には壊れてしまったそうだ。)
 
2時間ほど授業が行われた。授業が終わると子ども達は山の上に在る家に向かって急傾斜をよじ登って行った。私達も彼等の後を追って村の集落を訪ねた。

 


右の方で腰を低くしているのがムザヒル校長

そこで村人と学校の運営について話し合った。もう一人、先生が必要である事、もっと広い場所が必要である事などを伝えた。村人は、物資の配布と学校の開設を喜んでくれた。貴重な水でお茶をご馳走になった。村人はチャイ(ミルクティー)を出したいが、家畜が殆んど死んでしまいミルクがないと言った。家畜の死は、村人の暮らしに重大な影響を与える事を私達は知らされた。
 とにかくも、学校が開設された。子ども達の多くは家族を地震で失っている。心の痛みは大きいだろう。しかし、この場に集う事で少しでも痛みが和らぐ事を願う。子どもにとって仲間の存在は元気になる大きな力になるはずだ。この青空学校はそんな場であって欲しい。また、子どもの元気は親の励みにもなるだろう。
 学校の存在が村の復興の核にもなる事を願いつつ、日が暮れる前に山を下り
2時間ほど車を走らせホテルのあるアボダバードに戻った。ムザヒル校長とカユーン氏は文房具屋に行き、子ども達の学用品を買い揃えた。



(左)ムザヒル校長と子どもたち



勉強をする子ども



【増える生徒。もっと広い場所が必要。】
12
22日(木)
 昨日、子ども達に約束した始業時間10時に間に合うように8時にホテルを出る。被災地に入ると、規模の大きなNGOのテント村が幾つかあり、その中でも青空の下、授業が行われていた。
 10
時丁度に村に到着。子ども達はすでに学校に集まっていた。昨日より5人ほど多くなっていた。ムザヒル氏はここに学校が開かれた事が知れ渡れば子どもの数は増えるだろう。もっと広い場所を探さなければと村の人に再度話していた。
 子ども達にそれぞれバッグと学用品一揃いが渡された。とても嬉しそうであった。
12年生、34年生、5年生の3クラスに分けられた(パキスタンは小学校は5年までである)。先生はこの村に住んでいる人で、先生の経験がある農民で子どもが二人いる29歳のモハマッド・ハルーン氏である。静かな性格の人である。しばらくは、この学校の総務的役割をすることになるAKBGのカユーン氏は騒ぐ子どもの頬っぺたを叩いたりしていたが・・・・。
 午後
1時近くまで授業は行われた。先生はクラスごとに順番に授業を行った。その間、他のクラスは自習になるが、ふざけあってよく笑っていた。彼等の心の痛みを思うと、そんな姿が嬉しく思えた。授業が終わると私達は子ども達に、明後日24日に再び来ることを約束して別れた。
 田辺理事長が午後
11時の便で帰国するので急ぎイスラマバード空港に向かった。午後7時過ぎには空港に到着した。アヤーズ氏の旅行者案内所でミーティングを行い、午後9時に田辺理事長を見送った。私達は、今夜一晩、ラワールピンディーのムザヒル氏の親戚サリーム氏の家に泊めて貰う事になった。


村の子どもたちと
後部左よりムザヒル校長、AKBGカユーン氏、JFSA理事長田辺
子どもたちが着ているセーターやジャンパーは
アルカイール・アカデミーとともに配布したものです


12月23日(金)
 今日カラチに戻るサズイド氏とザファル氏と別れ、午前9時にラワールピンディーを出て、カユーン氏とムザヒル校長と共に子ども達の村に向かった。バスを二回乗り継ぎ、バラコートの町に着いた時は午後4時を過ぎていた。
 途中の山道では急カーブが多い上に、運転手の運転が荒く吐く人が多く出て乗客の一人が運転手に罵声をあびせた。怒った運転手が車を止めて、その乗客と喧嘩をするという一幕もあった。乗り合いバスに乗ると人々の息遣いを感じられて楽しい。バラコートでジープに乗り換え、村に向かった。
 今夜から3泊滞在する事になったテントに到着したのは午後6時過ぎであった。標高1500メートル程はあるので、とにかく寒い。テントの中には暖房器具は何もないので、毛布に包まる。電気もないので、カユーン氏が何処からかガス灯を持ってきた。村人がやって来て、肉が手に入らないのでと言いながら豆カレーを提供してくれた。とてもおいしく頂いた。
 この地域は家が全壊していてトイレもなかった。外の畑の隅で用を足さなければならない。外に出て空を見上げると、天の川も鮮やかに見える満天の星空だった。




始業前の整列
中央がこの学校のたった一人の先生ムハマッド・ハルーン氏


村の子ども達の家はこのように、ほとんどがこわれてしまいました。子ども達はテントでくらしています。これから雪が降ってきてきびしい冬をすごさねばなりません。
【活動の主体は村人。彼らの希望を支えていく支援を。】
12
24日(土)
 朝7時、カユーン氏が近くの親戚のいるテントから朝食を運んで来た。チャイと目玉焼きに、ここで出来た小麦で作られたチャパティーだった。牛と鶏が無事だったらしい。貴重な食料を有り難く頂いた。昨日、自分達の食料をバラコートの町で買おうとしたが、カユーンに強く止められた。三日ほどの事だから村の人が持て成しをしたいと言う。ムザヒル氏も私も迷ったが、厳しい状況にはあるが、客の歓待を重んじる村人の気持ちを受ける事にした。悲惨な状況ではあるが、心が可哀相なのではない。被災した人々の誇りを傷つけない支援をしなければならないと思った。
 青空学校の始業時間は
9時である。私たちのテントから歩いて20分程山を下ったところに学校はある。子ども達は整列をして国家を歌いお祈りをして授業が始まる。机もイスもないので地べたに座って勉強する。私も子ども達の後ろに座ってウルドゥー語を自習する。日当たりが良く、ついウトウトしていると子ども達がクスクス笑う。子ども達に厳しいカユーン氏もさすがに私にお仕置きはしない。
 子ども達は自分のクラスが自習になると良くお喋りをした。ウルドゥー語ではなく彼等の母語であるヒンヅコ語なので理解できないが、じつに楽しくお喋りをしている。そんな彼等を見てニコニコしている私を見て一言何かを言って大笑いする。決して褒めているとは思えないがこちらも可笑しくなる。私にとってこのひと時は楽しいものであるが、同じく子ども達にとっても楽しいひと時であることを願った。
 授業が終わって、先生の住んでいるテントを訪ねた。私たちのテントから歩いて10分ほど離れたところにあった。そこでムザヒル校長は授業の進め方を先生に教授した。私はこの集落で唯一つ崩壊を免れた先生宅のトイレを借りた。今夜の夕食は、学校に通う子どもの親が用意してくれた。質素なものであったが、ムザヒル校長らの活動に対する感謝の気持ちが感じられた。
 村人が私たちのテントを訪れ、今後の暮らしについて話し合った。政府は、余震も未だ続き危険な状況は変わらないので村を離れるよう警告している。政府が用意したテント村は車で三時間以上も離れた町にある。村人は生き残った家畜の心配や、この土地を離れたくない思いも強く、ここに留まりたいと思っている。全生活を他人に頼った後に来る、気力の喪失を恐れているのだとカユーン氏は言った。
 今来ようとしている冬の寒さや余震、水の問題などを考えると冬季の間だけでも避難する必要があるのではないかとムザヒル氏は考えている。が、スラムの人々を長年に渡って支援してきた彼は、自立の主体は村人にあり、彼等の希望を支えていく支援を行いたいと私に話した。眠りに着く前に用を足しに外の畑に出た。今夜も空は満天の星で輝いていた。それとは対照的に、地上の山肌には倒壊した家の前に設営されたテントからガス灯の明かりが弱々しく光っていた。





【立ち現れる子どもたちそれぞれの事情。
村人の積極的な協力。そして続く余震。】

12月25日(日)

 今日は日曜日であるが、明日ムザヒル校長は私と共にカラチに戻る事になっているので、先生や子ども達に無理を言って授業を行う事にした。学校に行く途中に何軒もの倒壊した家の前を通る。家の脇にはいくつもの新しい土葬の墓が作られていた。オモチャや色紙で作られた花輪が添えられた子どものものと思われる小さな墓もあった。
 学校に着くとすぐに、最年長(5年生)の、日本で言うガキ大将と思われる少年がやって来てムザヒル校長から目線を外して言った。「今日は町で、お父ちゃんと果物売りの仕事をしなければならない。授業を受けられない」と。そう言うと走り去るように急坂を駆け下りた。許可を貰うというよりも宣言のようだった。私は少し衝撃を受けた。授業を受けたいけれど受けられないと不満を言っているのではなさそうであった。表現するのが難しいが、
オレはオレの事情があり、学校の為のまして支援の為のオレではない。オレはオレとして考えろと言っているように思えた。何かとても大事な事を教えられた時に感じる衝撃だった。
 9時に授業が始まった。今日も三人ほど子どもが増えている。2〜3歳の子どもが多い。事情がすぐに理解できた。子ども達は普段から親の畑仕事や家事の手伝い、そして子守もしている。それで、学校に小さい妹・弟も連れて来るのだった。授業中にも鼻をかんであげたり、ぐずる子を諭したりしている。子どものそれぞれの事情が立ち現れていた。地震の被災も重なり厳しくて貧しくもあるが豊かな子ども集団だと思った。
 12時過ぎに授業は終わった。私達は再び先生の家を訪ねた。ムザヒル校長は先生の教授を。私はトイレを借りるために。
 自分達のテントに午後5時ごろ戻ったその時に、下から突き上げるような震度5程度の余震があった。私達はテントから飛び出した。周辺のテントからも村人が外に出ていた。不安そうな表情をしていた。夜になっても小さな余震が続いた。
 村人が今夜も訪ねてきた。学校の為にもっと広い場所を提供してくれるという。カラチから運んできた10畳ほどの大きさのテントも村人が設営してくれるという。村人の積極的な協力にムザヒル校長も喜んだ。寒さは一段と厳しくなってきていたが、村人の協力が気持ちを暖かくしてくれた。


12月26日(月)
 カラチに戻るために、この村を学校の始業時間前の午前8時ごろには出なければならなかった。村人は私達に新しい学校を見せるために、朝早くからテントの設営をしてくれた。
 最初の場所は、子どもがふざけ合って崖から転げ落ちるのではないかと心配になるぐらい狭い所であった。今度の場所は40坪ほどの広さであった。テントも丈夫なもので雨風の心配もないと思われた。村人に深く感謝し、1月13日には再び学校を訪れる事を約束して村を離れた。




(左)ムザヒル校長(右)JFSA事務局 西村(2005年12月26日撮影)



     
(上)第1回目の緊急支援物資輸送の様子


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